いわゆる偽書について、歴史学的に価値がないものは無価値なのか?

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偽書というのは、現代的な歴史学の概念です。じつは古事記にも偽書説があったことがあります。が、西暦1979年に古事記の編者太安萬侶の墓誌が発掘されたことで、古事記偽書説は一気に勢いを失いました。今回は、偽書は歴史学的には低価値かもしれないけど、他の意味では価値がないのかというとそうでもないという話をします。

そもそも偽書の定義からはじめてみましょう。

聖徳太子本人か書いた本 本物
後の世に誰かの夢に聖徳太子が出てきて語ったモノ 偽物
後世の誰かが、聖徳太子の名前でまとめたモノ 偽物

という風に、「その時代に作者本人が書いてないもの=偽書」です。書かれた時代や書いた人が違うものは偽書という話です。

現代人からしたら当たり前に感じるかもしれませんが、ここにひとつワナがあります。
偽書=無価値 ということではないということです。あくまで歴史学というフィールドでの価値が低いだけです。政治とか文化とか宗教とか芸術とか、フィールドが変わると価値が高くなることがあります。

例えば、宗教書の内容が歴史的にみて本物か偽物かという批判に適さないのは言うまでもありません。人間が処女から生まれるわけがないじゃないかとか、生まれてすぐの赤ちゃんが「天上天下唯我独尊」と言うわけないじゃないかとか、そういう批判は宗教書に対しては無意味です。事実かどうかではなく、どういう真実を信じるかが問題の世界だからです。そもそも大昔の伝説に「ウソであるという証明」をすることは不可能です。


孔子や老子の言葉も、 「役に立つ、あるいは、面白い」ということが重要であって後世の人間が孔子が言いそうな話として言ったのか、本人が言ったのか、というのは最重要な部分ではありません。思想書というものも、なにか気付きを得るために読むのであって、歴史研究のために読むわけではありませんので。


さすがに江戸時代の教訓として「時間を正確に」と言わせる「江戸しぐさ」のような、「どうみてもウソだろう」という偽書で道徳教育をするのはいかがなものかと思いますが、思想・宗教の領域なら、歴史学的事実かどうかが問題とされないことは多いかと思います。

さらに極端なのは政治史です。

例えば、政治の世界で「前の政権はカスだった!」と批判するのはよくある話ですが、本当にカスだったかどうかはどうでもよく、現政権のよさをPRすることが目的なわけです。歴史書の中で、滅亡する政権の最後の責任者が「悪役や無能者」として描かれることが多いのも、歴史書を書くのが次の政権の人達だからです。

例えば、豊臣秀頼や石田三成は「無能者」的に悪い言われがちですが、それもこれも豊臣政権を打倒して天下を取った徳川政権の人達が歴史を書いたからです。中国共産党が大日本帝国の悪口を言いふらすのも同じような理由です。「一時、中国大陸のかなりの部分を支配していた、悪の日本帝国を打倒して独立国家を作り上げた」という建国ストーリーを持っているので、基本的にかつての日本帝国のことを悪く言うようになっているのです。

日本書紀でも武烈天皇は「非常に有能な王」として描かれる一方で、悪逆非道を尽くした王と描かれています。武烈天皇には子供がなく、越の国(今の新潟県などを含む地域)を統治していた皇族が中央復帰して継体天皇として即位します。この武烈天皇も「前の血統の最後の人」だったので暴君としての描写をされた可能性があります。


事実かどうかという視点もそれはそれで大事ですが、同じくらい 「面白いかどうか、役に立つかどうか」という視点も大切にする必要があるという話です。

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