人間には、善人的な美徳と悪人的な美徳の両方が必要です。愛の宗教として知られる聖書の教えにも「蛇のように賢く、鳩のように純粋に」(聖書 マタイ伝)とありますが、狡猾さと純粋さは両方とも持たなくてはいけないということです。この辺の視点がきれいに抜けている人は、時としてただの公害になることがあります。
戦国の名将、上杉謙信の名言として知られる言葉に次のものがあります。
「手にする道具は得意とする業物でよい。飛び道具を使っても、相手が死ねば死だ。鉄砲で撃っても、小太刀で斬っても、敵を討ったことには変わりはない。」(謙信)
これは「飛び道具を使うのは卑怯なのか?(正々堂々、刀できりむすぶのが武士の戦いではないのか?) 」という問いに対しての極めてクリアな答えです。「戦いは勝つことが仕事」なのであって、戦国の勇将の精神に「スポーツのように同じ武器で戦うのが大事」という感覚は露ほども存在していないことが分かる名言です。
もし謙信が「刀で戦うことにこだわって、鉄砲を使う武将に負け続けた」としたら、部下にとっても領民にとっても最悪の大名になったことでしょう。
こういう「正々堂々よりも、勝つことを目的にせよ」という現実ベースの話は、あまり耳に心地よくはないかもしれません。最近のSNSでよく消費される「ちょっといい話」にはしにくいかもしれません。
ただ、武将でなくても人間の一番大事な仕事は何かと考えた時に、「使命を果たすこと」や「幸せであること」は一番になる可能性があります。が、「善悪の規則にのっとって正しくあること」が優先順位一位になる可能性は実は低めです。
というのは、善悪というのは立位置によってコロコロ変わるものだからです。たとえば、アメリカの独立戦争でアメリカとイギリスが戦ったことがありますが、アメリカの民衆を正義の戦士ととるか、邪悪な反乱軍の暴徒ととるか、というのは立位置の違いでしかありません。フランス革命もそうで、当時のフランス王政に対して反乱を起こしたパリの民衆を、正義の戦士ととるか、邪悪なテロ集団ととるかは、だれ目線から見るかで変わります。
また、大企業と個人が看板のビジネスの人とでは使いやすい正義も違います。「ほぼ世の中全員がお客様」というビジネスはあまり主義主張をはっきりさせないのが有利かもしれません。ただ、「数百人~数千人くらいの人がお客様」という場合は逆にキャラをはっきりさせたほうがファンがつきやすくなりますので有利になります。たとえば、アマゾンとYoutuberの違いという話で、前者は万人受けなお買い物サイトを作っていますが、後者は特定の感覚を持った人達に受ける作品を作っているわけです。
そう考えると、「善悪の規則にあまりこだわりすぎるると、一番大事なものを壊してしまう」という発想になるわけです。
江戸の庶民はこういう発想が身近だったのか、「悪に強きは善にもと、世のたとえにもいうとおり」(歌舞伎「天衣紛上野初花」)なんて表現がお芝居の中にも登場します。悪人でも善人でもあんまり関係ない、どちらかに強い人はもう片方にも強いもの、という話です。